CD セックスピストルズ「NEVER MIND THE BOLLOCKS(勝手にしやがれ)」

あんな小説を書いておきながら、よくよく考えてみれば英検4級の自分は洋楽はあまり聞かんのであって、前にちょっと聞いただけのアルバムでした。ウィーザーとかも聞きたいけど、いまいち金が出せない。まぁ、とりあえずパンクがどうとか言うなら持っておきましょう、という一枚なので、持っておきます。
イオニアらしいのですが、まぁ、日本ではこれよりも早く太宰治(や坂口安吾など)という無頼派の作家がいたわけでね。で、太宰治の前にだって、そういう人はいたわけで、まぁ、一杯いますよ、そういう人らは。パイオニアというのはジャンルにおいてはありますが、芸術においてはありません。人間というのはだいたい同じところをぐるぐるまわっているもんです。そのぐるぐるまわっているという自覚がある人間が半ばやけくその狂気から悪あがきの破廉恥をやる。あと踊らされてるなぁ、と思いつつ、ならめちゃくちゃに踊ってやるぜ、っていうのも結構重要だったりする。そういう、世の人がナンセンスにしか感じられないところに本当の美しさがあるんだと思います。それが人の力の極致。逆にナンセンスさがない場合、白黒つけるわけだから、どうしても一元的になってしまうわけで、ひとつの作品で両方混ぜ込んだカオスを含んでいない芸術はいまいち駄目ね、と思います。
ただ一元的な芸術が駄目かというと、そうではありません。宝石だと思います。ただ、糞があって、宝石が映えるとは思います。たいていの読者、リスナーは、糞を見るときには宝石を意識せず、宝石を見るときは糞を意識しないので、もう両方並べんと仕方ないわ。なに、並べても解らん?なら、もっと過激にやりますぜ。っていうのが持論です。元々あんまり過激なのは好きじゃないので過激にやりたくないのですが、解らんのだから見せつけるしかないなぁ。
荒木飛呂彦が「人間賛歌」をモットーとしながら、頭のおかしい奴とか破廉恥な奴とかを描くのもそこだと思います。正しい芸術とは全肯定と全否定という両立のありえなさそうな矛盾をバランスよくシェイクしたカクテルのようなものです。自分すら疑った上での自信、すれ違いの絶望、俗悪への怒りが芸術家の三要素だと思います。ちなみにジョジョ第六部のすごいところは宇宙を2つ存在させ、それぞれ一元的正義とカオス的ナンセンスで決着させ、作品内に同居させたことにあります。まぁ、このセンスオブワンダーは計り知れない。
あと自殺についてですが「自殺という選択肢を必然に持っているけども、決行に関してはほとんどアクシデントとか勢いである」という事を前提に肯定しております。
あと芸術に関してですが、どんなに伝えようと思っても、作者の気持ちは伝わないものです。ただごくたまに誠実な鑑賞者がいて「人のふり見て、我がふりなおせ」と思ってくれる場合があるだけです。同調はありますが、それは芸術が伝わっているというより、向こうが勝手に芸術を見て奮起しているだけです。芸術家は皆、「勝手にしやがれ」と言わなくてはいけません。解ってもらおう、というのはよいですが「解ってくれ」と鑑賞者にいうのは既にそれが傲慢というか欲張りです。
では、せーの。
勝手にしやがれ!!」

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坂口安吾「肝臓先生」を再読。辛いことがあった時は、読むことにしている小説です。