純文学とパンクロックと恋愛について。
自分の理想の女性像は誰かっていうと椎名林檎ですね。それも十代のころ。純文学とパンクロックと恋愛に関してのピークというのは、それらの真髄を得た瞬間がピークなんです。その真髄を得た瞬間の初期衝動こそがピーク。現在の椎名林檎には「現代のシド・ヴィシャスに手錠かけられるのは只あたしだけ」なんてことを真剣に言うだけの情熱はないと思います。というか作詞した時点で、もう100%の真剣さはありません。やっぱり自分の知る限り、椎名林檎の一番輝いていた時期は無罪モラトリアムのころだと思います。かつて町田町蔵だった町田康や、エレファントカシマシ宮本浩次は、明らかに昔より丸くなっています。そりゃあ、年を取ったら技術は向上しますし、人気も出ますわな。しかし純文学とパンクロックと恋愛というのはですね、純粋さと毒気を競うジャンルなのであって、丸くなったら駄目なんですよ。丸くなったらポップスに近づくわけでして、セックスピストルズとかですら、もうファーストアルバムの時点でピークは過ぎているし。セックスピストルズの、あの人生をなめくさり、投げ捨てたような態度は、自分達が既にピークを過ぎてしまって、過去の自分達からなめられている、という自覚があったからなんだと思います。じゃあ純文学とパンクロックと恋愛における究極は何かというと「自分が愛と真実と絶望と怒りを理解した瞬間、森羅万象の保存と消滅が同時に為されること」です。たとえば恋愛で「このまま時が止まればいいのに」「いっそ2人で死のう」っていうことがあるでしょ。それに近い。ちなみに自分も、もうピークを過ぎています。パンクと純文学のピークは2003年の2月でした。その当時、好きな女性はなかったので、恋愛でのピークは2004年の3月でした。あとは丸くなってポップになっていくだけです。あとは老いていくだけで、もう若さを失っていく一方なのです。結局、ピークにおいて、相思相愛にならんかったのです。嗚呼、残念。
思い出すことはできても、戻ることはできない。まぁ、思い出は綺麗になったり、汚くなったり自由に操ることができる上、なんだか思い出を思い出すと今すらも懐かしいのであり、にこにこ丸くなり、女や周りの人間ともうまくいって人気者になれるので、損得でいったら得なもんです。だけれど本当のピークは永遠に失われたままなのです。

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おそらく本当の意味では僕の最初で最後の純文学になるであろう創作集「(二十+一)世紀旗手」なのですが、金が無くて冊子が作れないので、そのうちウェブ版を作ろうと思います。
今のところ、予定している内容。
■連作「世界が平和になると言った男と世界が平和にならないと言った男」「輪廻男と賢母女」
■連作「人類憎悪マシーン」「嘘男だった真実男と真実女の恋」
■「パンクした道化ども、泪橋を渡る」
■「芸術論」
■「恋谷」

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