これだけ書いたって、誰も何にも解りゃあしないんだろ。

文字書きさんに100のお題、「合わせ鏡」更新。なんつーか、ねぇ。もう自分のこういうアンニュイを解ってくれる婦女子の方、募集中です。

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また部活のことで先輩と喧嘩した。色々話しているうちに「人を愛する義務はあるが、人から愛される権利はない。絶対に本当に理解しあえる人なんかいないから、もう他人に理解されたりを期待しない」ということを言ったら「もっと人を信じたらどうだ」と言われ、「実力を客観的かつ平等に評価しているつもりだけれど、今の状況では思っていることを話したら、誤解されるに決まっているから誰も信頼できない」と言ったら「頭でっかちだな、お前」と言われ、激怒。もはやこの人生、誰も他人に期待するものか、と思った。「人を信じろ」と言われ、思っていることをそのまま話したら理解されない。だから始めから「期待しない」と言ったのだろうが。いい加減にしてほしい。いい歳した男が人生について真剣に語り合うのはよした方がいい。特に俺にアドバイスをしたら、絶対に喧嘩になるぞ。もう何回同じ事言ってるんだ。そちらは親切なアドバイスだと思っているが、絶対ぶつかるんだから、よしてほしいな。だいたい会話したぐらいで解りあえれば、芸術なんかいらねー。要するに椎名林檎の「あたしの思想、見抜いてよ」は夢物語である。そういうこと。永遠の愛、理解は無い。もしあるとすれば、人間から愚かさという最大の悪が消えた時だが、そんなことになりゃあしねぇ。当たり前だ。どうせ死ぬまで片思いだ。
太宰治「如是我聞」より
「真の正義とは、親分も無し、子分も無し、そうして自身も弱くて、何処かに収容せられてしまう姿に於て認められる。重ね重ね言うようだが、芸術に於ては、親分も子分も、また友人さえ、無いもののように私には思われる」の部分抜粋。
坂口安吾太宰治情死論」より
「文士の仕事は、批評家の身すぎ世すぎの俗な魂によって、バナナ売りのバナナの如くに、セリ声面白く、五十銭、三十銭、上級、中級と評価される。
然し、そんなことに、いちいち腹を立ててはいられない。芸道は、自らの、もっと絶対の声によって、裁かれ、苦悩しているものだ」「元々、本当に女に惚れるなどということは、芸道の人間にはできないものである。芸道とは、そういう鬼の棲むところだ」の部分抜粋。
要するに原因は、俺は「芸術に善悪はある。その追求をする」という話をし、先輩は「それぞれの良さを尊重すればよい」というところを譲らなかったのであった。もちろん、人間誰だって、部員にだって、それぞれの良さはある。が、「俺はオンリーワンよりナンバーワン」の人間なので、本業のジャンルすら違うし、そこの部分の真剣さを共有できないから、どうしても孤独になるのは仕方ないと思う。ナンバーワンになれなくても目差すのは変わりないし」と言う意見の持ち主であるからして、そういう人間に「もっと他人を信じろ」という話もどうかと思う。ナンバーワン=他人にできないことをし、他人に考えられない考えをする、であるから、そういう人間が本当に、他人に理解されたり、他人を信じたりはありえないな。先輩の話は「それぞれの良さは認めるべきだけどナンバーワンを目差す人間は認めません」ってことだと思う。だいたいそっちから話しかけて、俺に「頭でっかち」はないと思う。こっちもエキサイトしたけど、結局、怒ってるじゃん。最初から「解りあえないから他人に期待しない」と言ってるのになぁ。別に信念あるなら、黙っておいて、あたりさわりのない話だけしてりゃあいいじゃん。信念を他人と共有しようとするから口論になるのであって、はっきり言って、他人に自分の考えを理解してもらおうなんて、それこそなめている。だいたい頭でっかちに芸術の真髄は解らないと思う。それは本能、五感で森羅万象から何かを感じることだと思うから。芸術バカに「頭でっかち」は「才能無い。死ね」と同じ意味を持つ。いくらなんでも怒る。だいたい、小説とか絵はともかくとして、俺が頭でっかちかどうか、見てりゃあ解るだろうが。行動してるだろうが。なめてやがる。何を言っていやがる。自分ははっきり言って、寛大ではない。すぐ怒る。それは認める。悪癖であると思うが、怒っちゃいけないわけ?向こうから話しかけてきた場合、反論しちゃあいけないわけ?自分は頭でっかちどころか、心でっかちである。冷静になれず、すぐ怒る。
太宰治は「苦労して、悪い材料は捨て、本当においしいところだけ選んで、差し上げている」と言い、坂口安吾は「単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい」と言っている。つまるところ、「それぞれの良いところ」は認めるけども、それでもさらに良い部分を探し、磨くのが芸術である。磨いた物を差し上げるサービス、奉仕である。絶対に芸術には善悪がある。身近な話をすれば「なんでこんないいCDや本が売れないんだろう」「なんでこんなネタで笑えるの」と、思ったことがない人はいないと思う。要するに、格闘技やら戦争ですら、完全な勝ち負けを判断できないぐらいなのに、芸術では絶対無理だ。平等に評価なんかしようがない。が、達人になるに従い、意見が近くなるのを考えると、正しい方向性は確実にあると思う。俺は、ずいぶんと真剣にやった結果、今の意見に至った。自分は無知無能だが、誠実だけは人一倍あるつもりだ。その結果、平等に判断してこういう結論に達した。とにかく世の中をスムーズにしようと思ったら、絶対、どこかで怒るか、批判は必ず言わないといけなくなる。まだテロルをしないだけ、ましだと思ってほしいし、人の話だって聞いているつもりだ。十手先まで予測する人間には十一手先を予測する人間の事は解らない。が、逆はある。そういうことだと思うが、それこそ芸術には、そういう区切りはないから、実力拮抗する場合、甲乙の判断が難しい。その場合、世界で一番先の手を予測している人間だけが、自分が頂点にいることを知る、ということになる。まぁ、俺はまだまだだと自分でも思う。だからプロにならんのだ。が、もっと先へ行きたい。
まぁ、抜粋だけではなんなので、自分の言葉でも少し書くか。西遊記孫悟空は、なんでも500年間、五行山の下敷きにされ、孤独し、飲食は、鉄の玉と煮えたぎる銅の汁だったそうである。牢獄から解放され、数々の妖魔を倒し天竺に至り、ようやく釈迦から「闘戦勝仏」と認められたのだ。芸術家であれば、孫悟空のような500年の孤独や責め苦は覚悟すべきである。妖魔と闘うべきである。たいていの人間は必死に立ち向かって、道半ばにして死ぬ。芸道に生きんとすれば、まず牢獄の死、戦死を覚悟せよ。
誠の決意は嘘に似る。正義を目差せば悪鬼に似る。無心の愛は悲しみに似る。完璧を願えば欠落を抱える。人間、道半ばに死ぬる生き物にして、全て中途半端に終わる。中途半端に終わる為、他人には、何も解らず。道を行けば悲惨なり。