叩き殺しの二衛門

 時は江戸、とある大名家での話である。
 斉藤伝衛門、井伊田新衛門という2人の男が居た。伝衛門は、百弓隊という弓の精鋭部隊の長であり、新衛門もまた鉄砲隊の長を務めていた。どちらも射撃の名手で、その腕前、甲乙付け難かった。2人とも、自分が上手と思い込んでいた。思い込んでいた、というより信念であった。よく張り合って「あのニ門衛門が・・・」などと陰口を言われることも決して少なくは無い。家中において「弓銃の二衛門」といえば、この両名を指すものに他ならなかった。
 2人は事あるごとに競いたがった。隊長がそうであったから、部隊の者も同様であった。百弓隊と鉄砲隊が犬猿の仲である事は家中の者であれば誰でも知っていたし、それどころか町人の間でさえ「今に一悶着」などと噂しあっていたぐらいであったから、その程度が知れよう。
 理由があった。射撃場は、領内に一つしかなかったが、月の上旬を百弓隊、下旬を鉄砲隊の管理とした。揉めるのも当然であった。縄張り意識は勿論の事、期限が来れば訓練も中止せざるを得ない。自然、両者の関係はこじれ、下旬になり百弓隊が建てた的を鉄砲隊が倒せば、上旬には百弓隊が鉄砲隊の膝のつき難いよう、わざととがった木の枝を地面に撒く、といった次第であった。
 このようになってしまった場合、大抵の場合は、道場で剣の試合などして決着をつけるものであるが、このニ衛門の場合、そうはいかなかった。伝衛門も新衛門も武士の癖に「実戦になれば役には立たぬ」と、まるきり剣というものを馬鹿にしていた。そうして、互いの弓と銃を掲げて譲らぬのである。
 勝負はつかなかった。弓という武具は、今日でこそ余り戦闘には用いられないが、本来、とてつもなく長い歴史と恐ろしく優れた射撃能力を持つ。特に百弓隊の使う強弓の威力はすさまじく、腕に当たれば腕が飛び、首に当たれば首が飛ぶという代物であった。対して、鉄砲であるが、この時代の鉄砲というものは弾はただの小さな鉄球で、現在の物と比べれば風の抵抗を受け、逸れやすく、威力も弓と比べて圧倒的に勝っていた物とは言えなかった。
 泰平の世において、人々の目には、伝衛門と新衛門の事はとにかく達人であるとしか理解できなかったし、実際の戦において、弓と銃、百弓隊と鉄砲隊のどちらが活躍するか、などということに至っては、もはや誰も判断することはできなかった。
 だからこそ、伝衛門も新衛門も、白黒をつける伺っていたのである。
 
 そんな折である。大殿の御前狩りが行われた。大殿は、既に家督を譲り、隠居の身であったが老齢でありながら、未だ狩りを好んだ。しかし、自らが弓鉄砲を手に取ることはなく、手練の家臣を集めては、もっぱら家臣に狩らせた。だから御前狩りというのである。
 狩りは、日の昇りきらぬ時間から始められた。皆、張り切っていたが、やはり飛び抜けて活躍したのはニ衛門であった。伝衛門の弓が鹿を射てば、新衛門の鉄砲が雉を撃った。この日も2人の決着はつきそうになかった。
 しかし、小休止を取り、皆が座りこんで食事を摂っていた時のことである。陣のどこかで騒ぎ声が聞こえた。見れば、大猪が我を失い、走り回っていたのであった。
「誰ぞ、あの大猪を仕留める物はおらぬか」
 大殿が大喝すると、ニ衛門がそれぞれの獲物を取り、立ち上がった。大猪は、大喝のせいか、大殿へ向きを変えていた。ニ衛門も、主命に依って立ったが、命が無くとも立ったであろう。主君を守るのにもはや命令は必要なかった。伝衛門が弓を引き絞り、新衛門も銃を構えた。そして矢は放たれ、弾は撃たれた。全てが一瞬の間に、速やかに行われた。矢も弾も見事に猪の頭に当たった。
 しかし、大猪は全く勢いに衰えも見せなかった。猪の頭蓋は、分厚く硬い。大きければ尚更であった。丸みのある厚い猪の頭骨は矢も弾も逸らすには充分であった。仕留めきったと確信していたニ衛門は驚愕し、その間にも猪はこちらへ向かっていた。もう次の矢も弾も間に合わなかった。
 だが、ニ衛門は、大猪を間一髪で避けると、すれ違いざま、その足に弓と鉄砲を引っ掛け、猪を払い倒した。そして、倒れた猪を殴り、やはり弓と鉄砲で叩き殺した。その時の猪の倒れた場所、大殿からわずか五歩程度の距離であった。よくぞやった、と沸く陣で、そのニ衛門が赤面していた。射術の名手を自負しながら、獲物を叩き殺したということに対する恥によってであった。
 「よくやった。ニ衛門の勇猛、褒めてつかわす」と大殿が声をかけた。ニ衛門は平伏した。だが「武士ならば、せめて刀で斬れよ」と大殿が冗談を言うと、笑い出す周囲を尻目に2人はますます赤面した。

 以来、ニ衛門を「弓銃のニ衛門」と呼ぶ者は家中に一人としていなくなった。代わりに「叩き殺しのニ衛門」と2人は呼ばれた。それが大殿を守り猪を屠った勇猛に対する賞賛であるか、弓銃はおろか刀も使わずに叩き殺したことに対する皮肉であったかどうかは21世紀の今日には伝わっていない。御前狩りの翌年、ニ衛門「その勇猛、百弓、百銃にも勝る」と、特例として一代に限り二十石の加増となった。