キスキス蛙スキ蛙

 今となっては昔のことです。まだこの国に本物の王族というものがいたころのこと。とても美しい一人の姫君がおりました。姫は、容姿の美しいだけでなく、それよりも更に美しい心を持ち、人々の口から「あんなにお優しい方は見たことがない」と漏れない日はないほどでした。
 ある日のこと、姫が、そのすらりとした麗しい体を裏庭に立たせ、花を愛でていた時のことです。どこからか「姫!姫!」と呼ぶ声が聞こえるではありませんか。姫はあたりを見回しましたが、人の気配がするものでもありません。しかし「姫!」という声は、幾度も耳に入るのです。「姫、足元を御覧くださいまし」そう言われ、姫が首を傾け、足元を見やると、そこに一匹の蛙がいるではありませんか。
「姫にお願いがございます。姫にお願いがございます。わたくしは、元は高貴な血の生まれでありましたが、自らの愚かさ故に、悪魔の餌食となり、このような醜い蛙の姿に変えられてしまいました。元の姿に戻るには、やはり高貴な血の流れる姫君に口づけをしていただくより仕方がありません。どうかお願いですから、わたくしに口づけをしてはいただけませんか?」
 蛙は、必死にそう訴えました。姫は、蛙のその様子を見て、蛙の話を信じましたし、元より姫に人を疑う心があるはずがありません。なぜなら彼女の心は優しさだけで満たされていたからです。
「わたしでよければ」
 姫は、迷うことなく、すぐにそう言うと、蛙を抱き上げ、口づけをしました。すると、蛙は、虹色に光り輝き、醜いいぼだらけの肌はきめこまかく、不恰好な手足はすらりと伸び、あっという間に見目麗しい青年の姿へと変わりました。
「姫、ありがとうございます。おかげで元の姿へと戻ることができました。このお礼は必ずいたします」
 青年は、そういうと去っていきました。

                                        • -

 あくる日のこと、姫が、そのすらりとした麗しい体をベッドに横たわらせ、お休みになっている時のことです。またしてもどこからか「姫!姫!」と呼ぶ声が聞こえるではありませんか。「姫、足元を御覧くださいまし」そう言われてみると、やはりそこには一匹の蛙がいるではありませんか。
「姫にお願いがございます。姫にお願いがございます。昨日、あなた様に呪いを解いていただいた男がいたと思います。やはりわたくしも、呪いを受け、このような醜い蛙の姿に変えられてしまいました。どうかお願いですから、わたくしに口づけをしてはいただけませんか?」
 その蛙もまた、必死にそう訴えました。
「わたしでよければ」
 姫は、うなづくと、蛙を抱き上げ、口づけをしました。すると、蛙は、またあっという間に青年の姿へと変わりました。
「姫、ありがとうございます。おかげで元の姿へと戻ることができました。このお礼は必ずいたします」
 その青年もまた、そういうと去っていきました。

                                          • -

 一体どこで聞きつけたのか、またあくる日にも別の蛙がやって来て、姫に口づけを願いました。その次の日にも、その次の日にも別の蛙がやって来ました。それからというものの、姫の評判を聞いた蛙たちが、毎日のように姫のもとへとやってきたは口づけを願うようになりました。姫は、一度としてそれを断らず、蛙たちに口づけを与えてやり、呪いを解いてやりました。そうして、皆、人間の姿に戻ると礼を言って去っていくのです。
 しかし、悪いやつというのは、どこにでもいるもので、次第に嘘をついて口づけをねだる蛙や、姫の口づけを奪うがためにわざわざ蛙に変身していくものさえ現れました。破廉恥なことに城下町のまじない屋には「蛙にできます」という張り紙が貼られ、店から順番待ちの男たちが絶えることがなかったのです。しかし、それでも姫はキスをやめませんでした。中には本当に呪いのために困っていた蛙もいたからです。多くの者が姫をあざむいていたとしても、やはりそういう者を見捨てることは姫のようなお優しい方にはできなかったのでしょう。
 姫には、将来を誓いあった許婚がおりましたが、その許婚も、初めは「姫の優しさゆえのことだから」と思っておりましたが、毎日、群がる蛙どもにキスをし続ける姫の姿には、次第にうんざりしてきました。ある日、ついに許婚は言いました。
「姫。君があの蛙どもにこれ以上キスをくれてやるのならば、僕はもう君とは一緒にいることはできない」
 しかし、それでも姫は、キスをやめませんでした。

                                                              • -

 それから何十年と経ちました。孤独な老婆となった姫は、まだ蛙に口づけすることをやめていませんでした。そのころには嘘をついてまでキスをする者もいませんでしたし、蛙もたまに訪ねてくる者がちらほらといるだけでした。彼女がいつどこでどのような晩年を迎えたということは今ではわかっていません。ただ。ひとつだけわかっていることがあります。それは、姫は、死ぬまでキスをやめませんでした、ということです。
彼女が果たして幸せだったのか、不幸だったのかは彼女以外の誰も知ることはありませんでした。
 今でも時折、私たちは、大発生した蛙の行進する様子をニュースで見たりすることがあるでしょう。大昔のことに詳しい人たちは、それは姫の死を悼んだ蛙たちが彼女の墓をたずねて、さまよっているのだろう、と言うのですが、それが本当かどうかは蛙に聞いてみなければわからないでしょう。しかし、残念なことですけれども、人間と蛙が同じことばを話していたのも、やはり大昔のことなのです。