泪橋を渡る

 私は、当年取って二十歳である。今朝、鏡に映った己を見て、老いたと思った。だから、私は、今から小説家になろうと思う。
しかし、いくら老いていようが、私は「弱冠」と評することが許される年齢。あえて筆を取って書く価値のあることなど多く知っていようはずがない。だが、ひとつだけ。たったひとつだけで良いのであれば、私は、語ることが許される経験を持っている。それを、あばらの内に秘めている。
 私は、神を見たのである。

                                  • -

「お前、平田だろ」
横浜の路上で声をかけられ、ロケットと再会したのは、十八の冬の初めだった。
 年の暮れない内に、推薦という形で大学受験を終えた私は、いよいよ何かの喪失を確信した。よく分からない敗北感と死に至る病を感じた。訳の分からない衝動に追われ、私は、ベッドで寝転がって読んでいた竹村健一の「ゴールデンナインティズ」という本を窓から投げ捨てた。こんな未来、糞食らえだ、と思って。
 そうして、空虚になりきってしまって、もらった祝い金や貯金をかき集めて街へ出ると、何をするでもなくプープー音がなりそうな程、空気が漏れたような生活をして、あてひとつない放浪をしばらく続けていた。グダグダだった。
そうして、いつ、どこでだったか思い出せないが、知り合った家出少年(やたらに汚い金髪をしていたことだけ覚えている)から行きずりの懇意を得て、長く家を出て暮らすなら横浜に行くといいと教わったのだった。横浜には、ホームレスが数多く居た。まるで一種の民族であるかのような彼らの中には、若い者も散らしたように混じっていた。私も、そこにいったん混ざると、保護色に埋まったようになって、しばらくは蓄財を減らしたり、よく分からないような保護を受けたりして過ごした。でれり、でれりと何かが溶ける日常であった。
ところが、或る日、その保護色に埋まらない若い男がやって来た。半死人のジュブナイルの木立に堂々と佇む彼を「変わった奴が来たなぁ」と、じっと見つめていたら、それがロケットだった。
「確かに俺は平田だけど、お前、誰だよ?」
「ロケット。覚えてないか?覚えてるだろ。ロケットだよ」
彼は、それだけ言って、必要以上に名乗ることも、私との間柄も、何も説明しなかったが、二人の間では充分だった。私は、全て了解した。彼は、私の親友、いや、もっと上の存在。つまり私にとってのスペシャルなのだ。
「久しぶりだな」
 それだけ言うと、彼は、爽やかに笑った。嗚呼、この笑顔!少年時代の私は、いつも透徹の極みであるこの微笑を見て暮らしていたのだ。グダグダに溶けたはずの私が甦り、血管を駈け巡ると、昔のように心臓がどきどきした。
 昔のことだ。ロケットは、私のひとつ上の学年で、どういうきっかけかは覚えていないが、いつからか友達になった。彼は、小学生の時はもちろん、中学生になっても、好きな女の子をわざといじめては泣かせるような奴だった。「なんでそんなことするの?」と聞くと、今みたいにきらりと笑って言った。「俺は悲しい物が好きなのさ」
 ロケットのポケットには、いつも芯のひとつ足りないロケット鉛筆が入っていた。少し欠けているだけで使い物にならないそれは、彼の一番のお気に入りの悲しい物だった。それで彼も、ロケットというあだ名で呼ばれた。そして、私は、彼の二番目にお気に入りだったのだ。もはや友人ではなく、忠臣だった。意地悪されて泣かされては、彼の笑顔を下賜される毎日は幸福の限りだった。
 だが、中学三年生の夏、彼はいなくなった。或る日、突然、家からも、学校からも、ニ人だけの秘密の場所からも、かき消えた。かの性癖を知らぬ親も教師も、なにがなんだか分からず大騒ぎしたが、私だけが確かな事を知っていた。彼はきっと私より悲しい他の誰かを探しに行ったのだと。
「ロケット。この三年、どうしてた?」
「恋をして『今がベターだ。これ以上、愛し合ったら、恋はピークを迎えて終わってしまうから、一緒には暮らせない』なんて言いながら、同棲しては、全部駄目にして、妊娠中絶させて泣かせたり」
 ぴかり。彼の笑顔は電光石火、私に届いた。嗚呼、相変わらずだ。なんでこんな話をしながら、こんなに綺麗に笑っていられる奴がいるのだろう。やはり人生には悪魔の魅了術が宿った不可思議がある。
「探し物は見つかったかい?」
 少し、意地悪な質問をした。したと思ったが、彼は、血管が透けているのではないかと疑いたくなるほど、頬を紅潮させて、また透明に笑った。
「ああ!見つかったぜ!今度の奴は最高だ!」
私は、私の知らない笑顔をしたロケットを見て、こんなにも彼の胸を誰よりもときめかせる者は誰なのか、知りたくなった。

                                              • -

 山谷。東京の下町、荒川区台東区にまたがった、寄せ場を中核とする地域である。寄せ場は、「宿」を逆さに読んだスラングでは「ドヤ」街と呼ばれる。「あしたのジョー」の舞台にもなったと言えば心当たりもあるだろうか?とうに取り壊された泪橋があった場所である。東日本のあらゆる地域から、あるいは職を求めて、あるいは追われるようにして、やって来た日雇い労働者が眠る宿場だ。
 そのドヤのうちでも最大のものがパレスハウスである。1962年から聳え立つ貧民たちの城は、木賃宿とはいえ、巨大で壮観である。部屋は本当に簡素なものである。まるで強制収容所みたいな何段も積み重なった蚕棚型のベッドがあり、時には六畳間に八人まで押し込められることになる。しかし、四階まで上がると、そこでは個室を借りることが可能になる。その四階の一室を1989年の秋からしばらく間借りしていた男がいたことを私以外に覚えている者がいるだろうか?
 埋め立てられ消えた泪橋を超えると、それはもうひどいものである。「世界本店」という看板を掲げた褐色の建物を覗くと、なにやら立ち飲みの店らしく、椅子もない中で酒を飲んでいる男が見えた。付近の自販機には、泥酔したのか、野宿しているのか分からないような形で、汚れた面相の男がもたれかかっていた。横浜でホームレスには慣れてはいたが、この光景にはぎょっとした。
「彼らにとっては、ここが世界の本店なのさ」
 ロケットが、あの笑顔で言った。私は、彼だけを頼りに、寝ているか、酒を飲んでいるかしている男たちの棲む(文字通り、棲んでいる者も当然いる)路上を歩き、例のパレスハウスの個室へと案内された。
 扉の前でロケットが立つどまり、ゆっくりドアに隙間を作る。「見ろよ。俺の知る限り、最高の奴だぜ」とささやいた。部屋を覗くと、そこには一人の男が、一流のホテルではありえないほど小汚いベッドに腰掛けていた。やはり何か小汚いささくれだった革表紙の本をじっと読んでいる。男の顔は、髪も髭もずいぶん伸びていて見づらかったが、確かにとても悲しげに読書している。なるほど、彼が気に入りそうだ。さらによく観察すると、ぼろぼろの皮に刻印された文字が読めた。新約聖書と書いてあった。
「帰ったぜ」と、ロケットが口火を切った。男は、私たちに気付き、聖書を丁寧に閉じると、こちらを向いた。
「ロケットか。おかえり。おや、今日は連れがいるようだね?誰だい?」
 にやにや笑って、ロケットが答えた。「元彼!」
 元彼って。こいつは、何を考えているのだろう。だが「元」とはいえ、彼のことを大切に思っている私は、かなり嬉しかった。悲しい者しか愛せない彼にとっては、恋人ってそういう奴、全般なんだろう。
「元彼で、えーと、どうしようか。あまりここじゃあ本名というのも何だろうし」
 私を紹介しようとして、名前をどうしようか迷ったロケットが、私を見て、問うた。
 私は、私を名づけた。「マシン。マシンと呼んでほしい」
 やや挙動がおかしくしながらも、ロケットは、男に私を紹介し、私に男を紹介した。
「こいつはマシン。で、この人が神父だ。神父だったらしいから、神父だ。シンプルだろ」
 促されて、神父は、ぺこ、にも少し足りない程度に頭を下げた。ぺ。「よろしく、マシン」
 ロケットは、この私たちの集合を満足に思ったらしく、飛び跳ねながら、ぴかぴか笑って喝采した。
「魔界へようこそ!」

                                              • -

 全くもって、わけがわからないうちに山谷に滞在することになった。幸い、ロケットが部屋代を出してくれることになったので、個室を借りることができた。どうやら神父の分も、ロケットが出しているらしい。どうせどこかの女を騙した金だろう、きっと。
 日雇い労働をしないのであれば、山谷は退屈なところである。体がまともなほとんどの者は、昼間の間、働きに出ている。今は、バブルで建築ブームなので、仕事はかなりあるらしく、給金も1日で一万五千円ぐらいにはなるらしい。まぁ、それも目安で鳶だったり、職工だったりするかによって違うらしいが、働いていない私たちには関係がなかった。ちなみに働いていない者は、具合が悪いか、運が悪いかである。そういう奴は、金があれば酒を飲んでいるようだった。
 ロケットが留守になると、彼を観察すること意外にやることがない。一日、パレスにいて分かったことがひとつ。神父は、どうやら病んでいるらしい。嫌な声を出して咳き込んだり、血を吐いたりしている。恐らく、もう働けまい。ロケットが養わなければ、とっくに外の寒さにやられているかもしれない。彼は、無口で、人付き合いも苦手なようであった。まぁ、得意な者なら山谷に来たりはしていないだろうが、それにしたって異常だ。私をじろじろ見るわりに、何か話しかけても来ない。よく考えれば、こちらから話しかけるでもないので、向こうでも同じ腹かもしれないのだけれど。
 夕方、ロケットは帰ってくるなり「世界本店にでも行こう。ホルモン焼きを買ったんだ」と、茶色い包み紙を見せた。三人は、また泪橋交差点へ向かい、結局、自販機でビールを買って、ホルモン焼きを囲んだ。酒が入ると、神父は、人が変わったように饒舌になった。(神父が酒とか飲んでいいのか?確かキリストは、酒飲みだったらしいと本で読んだけど)後に知ったが、この人は、神父のくせに、聖母の名を冠した、まりや食堂に行ったことがないらしい。もちろんその理由は酒がないからだ。
「誰か俺を抱いてくれ!」
 ロケットがアルコールで顔を紅潮させ、叫びながら走り回る。それを横目にしても「いつものことだ」というような顔をして、神父は、とりとめのない話を続けた。
「マシン、君は「あしたのジョー」を読んだことはあるか?あれは名作だ。色々あって神父になった。灰になるのが男だと思って、やってみたが、灰になり切れなかった。泪橋のことを思い出して、ここで渡り直せば復活できるかと思ったが、もう橋なんか、とっくに無いのな」
 悲しげな顔で、神父は語った。確かに悲しいのは分かるが、こいつ、ロケット鉛筆よりも悲しいのか?そして、私よりも?
「なんでも江戸の世には、小塚原刑場というのがあって、処刑のために引き回される囚人が、涙を流して渡り、橋を隔てて対岸では、その家族も涙したことから、涙で繋がれた泪橋と名づけられたらしいがな。そして、いつしかドヤ街へ向かう敗残者たちの涙の橋となった。悲しみと敗北の象徴だ。わかりやすいもんさ。しかし、今はどうだ。泪橋はない。敗北の象徴すら残っていない。現代の我々の涙はどこへ行く?野良犬にすらなれない。象徴もなく、複雑で、理解し難い敗北者だ、私たちは」
 私は、「私たち」に含まれているのだろうか?含まれていても良いと思った。隣で酩酊したロケットがにこにこ笑って見ている。異常な性癖を持った彼もまた、敗北者なのだろうか?
「私は、イエスの背負った人類の罪を贖いたかった。彼の背を軽くしたかった。だが、できなかった。私も、イエスを裏切り、護れずにいた使徒と同じく、何も知らず、何もできず、ただ泣くだけの弱虫なのだ。布教を果たした使徒は敗北者ではないかもしれないが、あの殉教していった使徒でさえ、イエスが復活するまでは、少なくともそうだった。勝っている使徒なんて、どこかで絶対に、いんちきをしているはずなんだ」
 そうつぶやき続け、彼は、泣き出した。私は、先ほどの彼の言葉を思い出していた。泪橋を失った、現代の我々の涙はどこへ行くのだろう?
「富める者の天国へ入るは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」神父は聖書の言葉をつぶやいた。そして、続けた。その声は小さくかすかな声で、よく聞こえなかったが、私にはこう聞こえた。「針の穴を通り抜けるラクダだっているはずだ」
 悲しいものしか愛さないロケットと一緒にいるうちに、私もその匂いには敏感になった。そうして、私は、目の前の男が、まるでアリを惹きつける砂糖のかたまりのように、その匂いを噴出し始めてきたのを意識した。
「イエスの事を考えると、胸が感謝の気持ちでいっぱいになると同時にとてつもなく悲しくなる。人類の罪を背負ったイエスの背を軽くしたいと願いながらも成し遂げられず、むしろ罪深き私は、彼の背を重くしている。私の「師を助けることができない」という罪ですら、私の師は、背負っているのだ!おお、神よ!」
 泣き叫び、神父は十字を切った。嗚呼、これか。この悲しみか。ロケットを捉えて離さない物は。確かに目の前で泣く男には、究極の無力が宿っていたのだ。
 ふと、その光景を見て笑っていたロケットが何てことないかのように、さらりと言った。
「マシン。俺も、神父も病気なんだ。もう治らない。二人とも、きっと90年代を生きて迎えることはないだろうね」
 辛い告知であった。

                                                      • -

 それから一月が経った。私たちは、無一文になった。ロケットが有り金を使い果たし、その上、二人の病状は進んでいた。私には、三人を養い、治療を受けさせることのできる額を得れる仕事を探す為のつてもスキルも無かった。私たちは、山谷堀公園で寝泊りしていたが、はっきり言って、冬の寒さに耐えるには、もう限界だった。もはや滅びの民。恋の終わった蝉。
「ここは、深い井戸の底だ。天空を直視しても、わずかな光しか射さぬ」
 神父は、神父のくせに愚痴ばかり言った。ロケットは、それを楽しそうに眺めているだけだった。
「病で再起できぬのは、望みのない恋に似る」
神父は、血を吐きながらも、まだ愚痴った。愚痴でも、そこまで愚痴れるのなら、たいしたものだ。だが、愚痴ってばかりの彼にも取り柄があって、野宿のノウハウを知っていたのは、私たちの寿命を延ばすことになった。本当に単なる延命に過ぎなかったが。
「布団にする新聞紙は、スポーツ新聞の方が、全然良いんだ。インクが多くって保温性があるからな。それとなるべく体は密着させるんだ。温まる。袖摺り合う他生の縁なんて言うが、私たちは袖どころじゃあないな。体の縁だ」
「縁は、仏教ですよ。神父」私が、そう突っ込むと、神父は笑った。ロケットも笑った。次には、もぞもぞ動くロケットを神父が見咎めた。「わっ、ひでぇ、ロケットの奴、勃起していやがる」「仕方ないだろう、感じちゃうんだ!」
 また私たちは、どっと笑った。泣きたくなるような敗者の毎日も、少しだけ笑える時間はあるものだ。そのまま私たちは何となく愉快に眠って、ロケットとは、それが最後になった。

                                            • -

「ロケットが死んだ」
 私を、揺り起こし、神父が告げた。朝日も見えぬ、未明のことだった。わずかに神父の声が白い湯気になっているのが見えて、確かに私たちの間に挟まれて眠っていたロケットは、冷たくなって逝ってしまっていた。
「良い奴だった。歪んでいたけど、透明に私たちを愛してくれた。どんなにか世間が彼を敗北と見なそうとも、私たちだけは、それをすまい」
 神父の言葉に、私も応じた。
「分かっています」
 彼は、また悲しげにつぶやいた。「冥福を祈ろうか」
 すると、その時、ちょうど夜が明けた。堰を切って、地平を飛び越えた曙光が射し込んだ。彼を囲む霜柱が光の粒子を鮮やかな弾力をもって反射しては、きらきらと万華に輝いた。そして、何の為とも、誰の物とも知れぬ神聖な沈黙が訪れた。朝靄が揺れ、彼は死んだ。だが、しかし。
 光は射す。どこへでも。誰にでも。正しく愛する能力を持たず、罪深く師を裏切り、また、護れず、何もできず泣く者にも。
 神はいる。
 彼を看取り、ひとしきり十字を切り終えた神父は、私の方へ向き直ると、静かに、だがとても強く、きっと今まで秘めていたのであろう己の遺言を伝道した。
「いいかッ!敗北とはッ!真の敗北とはッ!理想を掲げて戦い、その果てに敗れ果ててなお、己の敗北を知らぬことだッ!
 己が、メフィストフェレスより恐ろしい最大の悪魔に頭から噛りつかれ魂を食い尽くされた敗北者とも露知らず、もはや戦場において死人であることにも気付かず、まだ生きて戦い続けていると誤って思い込むことだッ!
 どんな深い井戸にも光は射すッ!神の愛からは逃れられぬッ!信じ続けよッ!愛に背くなッ!誠から逃げるなッ!己の敗北と死を悟らなければ、人は復活できぬッ!使徒よ、復活せよッ!敗北の絶望と死に至る病、その克服と復活の先にのみ、天国があるッ!
 まだうら若き君よッ!復活せよッ!復活して伝道せよッ!伝道し、敗北者を復活させよッ!それがイエスの弟子の唯一無二の道だッ!イエスの背を軽くするただひとつの道だッ!
 敗北者たる若き君よッ!復活して生きろッ!イエスになれッッ!!」
 
 叫び声や光や魂や祝福など、全てを朝の霧が、何もかもを朝の露が吸い込み、また静謐が辺りを満たした。神は行った。だから、私は、我に返って、そうして、ロケットの遺体を抱いた。私は、ロケットの遺言にも気付いた。反射で叫んだ。
「神父!ロケットの奴、勃起したまま死んでいます!」
 爆笑である。