福島聡「少年少女」4巻。

相変わらずすごいなぁ。こちらの眼中に入ってきて、こちらが目を見張るものも少ないので嬉しい限り。認めるしかない作品は良いものですね。
というか、すごい人は関西人が多いなぁ。関西中華思想、あながち誤りじゃないな。まぁ、こっちはこっちでね、人がいないわけじゃないんだがね。今に見てろ。
あとこの人、画風と画材は相性悪い気がする。筆圧が強そうだからGペン(?)は合ってない気はするのだけれど。ま、他人事ですけど。

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生きる道、一つだけあり。即ち退転。
どうせみんな24時間のうち、どこかで無意識に転んでいやがるんだ。こっちは24時間不退転の決意でいるから懺悔することになる。
メロス「信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!」
もっと恐ろしく大きいもの、愛、誠、義。そんなもの。愛とは恐ろしいものだ。決して人間にとって味方でない。愛は人間の最大の徳であり、最大の病だ。本来、恐ろしいものだ。あっさりするほど人の命も問題にならない。
遠藤周作の「沈黙」で、宣教師が踏み絵のイエスから「踏むがいい」という声を聞くシーンがあったと思う。どうしたって踏まざるを得ない踏み絵がある。
太宰治は、ほとんど全力で走っていた。しかし、全力で走れば走るほど、足がもつれて転んでしまう。彼の居るところが懺悔室であった。彼の足の触れるところ、全て踏み絵であった。その苦悶の叫び、「生まれて、すみません」。
とにかく不退転を当たり前だと思うから生きていかれなくなる。もうそういうのは無理だ。退転して、リセットしないと。そこから生活を始めて、生活を優先してから何とかやっていかないと。まず生きることだ。で、次に不退転。本当に命をかけての不退転が必要な時には勇気を出せばよいだけでさ。
ガガガSP「弱男」を聞く。コザック前田が叫んでいる。「中途半端っていうのはッ!中途半端っていうのは本当に人間の美徳やねんッ!そんな完璧な人間なんかおらへんねんッ!みんな、中途半端やッ!中途半端を認めてしまえッ!!」
認めざるをえないね。そんなところまで来てしまったもの。うん。それでいいじゃないか。何とか、生きていかなければ。人間、断固して中途半端にならねばなるまい。
もう親など知るか。知らん。マジ知らん。俺に対して無茶苦茶な要求をしすぎた。英才教育?知らん。知らん顔しなければ無理だ。とにかくね、踏み絵を踏まずに生きていかれるものか。踏んでる野郎が知らん顔で聖人気取りしやがって。ボケが。お前らのせいで危なく発狂するところだったぜ。しかしね、俺は寛大だから聖人気取りのお前らを許す。許すのは俺、許されるのはお前らの方だぜ。なんせこっちは殴るまいと思っていたんだからね。君らは君らで生きていけ。俺は俺で生きていく。知らん。知らん顔して踏み絵を踏んで不完全な愛、白くもねぇ汚濁した白濁の愛。封切った瞬間に中古になったポンコツの愛を掲げて生きてやるわ。おい、俺より早く走った奴だけが俺に対して発言権を持つんだぜ。俺は自然には負けたことはあるが人間に負けたことはない。ははは、俺よりもすげー女に出会って敗北して仕えて生きていきたいものだが。ははは。
ラジカセはフル稼働。回るディスクはエレファントカシマシ「goodmorning」、「Iam happy あいつら関係なかったよ」なんて唄って、俺、happy?

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やはり何というか生きていく自信がない。もう駄目だ。確信した。理由がはっきりと分かった。今、死ぬ気は一切ないが、いつか絶対死ぬ。単なる自己嫌悪とかかと思っていたが、そういう問題ではなかった。本当に親が悪い。そして、あいつらが悪い。何であんな育て方をしやがった。物心もついていない、本当に純粋無垢で無欲なうちから、あんな事を教え込んだら、生活の苦しみ、欲、汚れを知った時に死ぬじゃないか。死ぬじゃないか。あいつらが正しいと思って全力でついていった俺が馬鹿だった。汚れていたのはあいつらじゃないか。俺が、俺が、あいつらの方よりも綺麗だったじゃないか。ひどい。今になって汚れを知りました。生きていかれません。誰だ?「世のため、人のため」「正義のためには死ね」「自分を捨てろ」「自己犠牲だ」等と言い出したのは。忘れたくても体の方が覚えていて、ぬぐいきれない。命ばかり軽々しく思えてきて、本当の正義など夢物語だと解るばかりじゃないか。もう駄目だ。現実を知れば知るほど、駄目だ。何が誠実だ。現実を見ない誠実がどこにある。何が理想だ。甘えているから理想などと言える。現実があって、理想があるんじゃないか。誰も理想を唱えるばかりで現実を教えてくれなかった。あいつらを信じた俺が馬鹿だった。しかし、こっちは疑う事を知らない子供の頃から、親に、あいつらに馬鹿な事を吹き込まれてしまって、今更、どうにもならない。本当にもう駄目だ。全てを忘れ去りたいのだけれど、そんなことをすれば「忘恩!恥知らず!」の罵声だ。いい加減にしてください。
俺に色々と教え込んだみなさん。あなた方は僕の教育に失敗したんだ。諦めろ。何も言うな。俺も許すから、あなた方も許せ。もう今更、手遅れなのだれけど。

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太宰治夏目漱石が嫌いだった。
「もしも則天去私を子供の頃から教え込まれ、それを一生、実現することだけを人生の目的として育てられた人間はどうなる?」
その問いの答え、太宰治は知っていた。

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走れメロス」のメロスとセリヌンティウスが殴りあうシーンがあるが、あれは本当にすごい。人間の信頼や友情には、疑いと殴り合いこそが不可欠だという事を描いている。殴り合いには、物質的、精神的、意識的、無意識があり、要するに太宰治は「悪は無意識の殴打」であり「意識的の殴打は悪ではありません」と書いている。つまり、あらゆる人間の接触において、すれ違いは避けれないから覚悟せよ、という事であり、すれ違いを公然と認める、という事が友情において大切な事だと書いている。当たり前に見えるけど「究極の友情を書け」と言われて、「絶対に全ては解り合えない」という前提で書ける人は意外と少ない。
まぁ、実際は両方がすれ違いを意識して歩み寄ったりは少なく、「殴りたいけど殴られたくない」「殴られてもいいけど殴りたくない」などが見受けられ、しかも、それに意識的、無意識が絡み合い、他人も介入してきたり大変なことになっています。そういうカオスの中で一番ひどいのは「無意識で殴って、殴られていることにも気付かない」という人ですね。で、世の中、自殺するタイプの人というのは「殴られてもいいけど、殴りたくない」というタイプですね。ただ、どう思想しようが、実際にコミュニケーションすれば、すれ違いは生ずるので、殴り合いは絶対に生じますね。それが嫌なら遁世するしかない。太宰治という人は「いっそ公然と殴り合って許しあった方がよい」という考えでしたが、実際には「殴られてもいいけど、殴りたくない」というのがぬぐいきれず、ついに死にました。僕もまぁ、そのタイプに属します。
しかし、どう考えたって、殴りあうのだから、お互い許さなければならない。