苦しい、と言ったって、それが生活だ。生活は苦しいものだ。しかし、苦しみは生きている証だ。
俺は生まれてから17年間、ほとんど「生活」すらしていなかった。初めてCDという物を買ったのも、そのころだし、テキストサイトに出会ったのもそのころだ。そのころから徐々に人間らしくなってきた。誰からも疑われる程のあきれた事実だが自分の金で缶ジュースを買ったのは大学生になってからだ。
何故そんな「生活」のない生活をしていたか理由は書けない。何でも正直に書くつもりだったが、これだけは勘弁してほしい。ただ、本当に奴隷以下のペットのような人生だった。人間失格していた。人間失格していることすら自覚していないかった。偽善、愚によって俺はひどいめにあっていた。「人はパンのみで生きるにあらず」と言うが、俺はほとんどパンだけで生きていた。半ば屍と化して。強制収容所みたいな毎日の中、わずかな小遣いで買う漫画、テレビ、ゲーム、本だけが俺の17年間だった。そのわずかな世間だけが、かすかに五感を刺激していた。日陰者ではなかった。暗黒者だった。日陰なら障害物の先に太陽を想うことができる。全くの暗黒。暗黒でありながら、暗黒すら知覚していなかった。
CDを聞いたり、テキストサイトをはじめたり、大学に入って一人暮らしをしたり、俺は生活を知った。この3年間だけで17歳までの十倍以上は五感を使って人間らしい生活をしていると思う。人よりも生きることの素晴らしさ、愛の大切さを知っていると思う。
俺が善悪にこだわったりするのは「生活」する権利すら奪われていた事に対する怒りがあるからだと思う。俺は自由も平等も人権もほとんど奪われていた。奪われたことのない人間は解らないかもしれないだろうが、あれは悪だ。奪われてみれば解る。
とにかく、今はそれに比べたら、全然ましだ。あの頃の俺が、今の俺を見たら「羨ましくて仕方ない」と言うだろう。絶対にそう言う。俺は今、人間の生活をしている。自殺願望は、あの頃からだった。あの生活のない生活の亡霊だ。苦しい、と言ったって、それが生活だ。生活は苦しいものだ。しかし、苦しみは生きている証だ。人間の証だ。

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第28回講談社漫画賞決定(http://www.sankei.co.jp/news/040512/bun100.htm
うおお、「ウルトラ忍法帖」シリーズが受賞している。まだやってたのは知ってたけど。御童カズヒコというと「アリスクラブ」だか何だかでロリ漫画描いてた印象が強いです。記憶に自信がありません。もし勘違いならごめんなさい。
ちなみに「アリスクラブ」は僕の持ち物じゃなくて、兄貴のカバンに入ってました。兄貴のカバンには大量のエロ本と腐った鶏肉が入っていて、僕は本当になんというか、その・・・驚愕しました。人間というものの奥深さを知りました。この世にどんな奇妙なことがあったとしても、人間そのものが奇妙な生き物ですから不思議はありませんね。

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うう、胃が痛くて仕方がない。すごく辛い。嫌な夢ばかり見るし、起きていても何の希望もない。何も楽しくないし、もう何のために生きているのか解りません。日記書いてるときが一番楽しいぐらいだ。こんな内容の日記でも書いてて楽しいんですわー。うん、もう本当にそろそろ限界かもしれない。
部活もさー、相方いねぇし、ピン芸は好きじゃないし、ライブやっても苦労だけで面白くねぇって話だよ。別に仲間だけど、それ以上でも、それ以下でもないしさ。なんか立場的にもすげー孤独感があるんだよなぁ。だいたい友達も恋人もいねぇしよー。もうどうでもいいよ、正直。生きがいにはなりえない。だってライブやっても、やりたいネタじゃないんだもん。知らねーよ。こっちは、かなり命がけでやってるのによー。本当にかなりギリギリのところまでやってるよ。何もしない奴らが、それを当たり前だと思い始めていやがるのが嫌だ。こっちが思っている事や苦悩していることの一割に満たないことでも、発言したら泣きやがるしよー。もう放棄したい。
まぁ、実際は放棄したら、それこそ人非人だと思われるし、何だかんだ言っても愛着はあるので、頑張って人と向き合って生きていかないといけないのだけれど、努力すればするほど、他人の心理の機微やら自分の行動力の限界やら失敗の影響なども解る能力も開発されていくので、どんどんこっちも繊細になってしまい、もうどうすればいいのか解らない。人の痛みが解るったって限度があるだろう。人の痛みばかり気にしてて組織の運営をしたり、生きていったりできるものか。でも、駄目だ。ほんの細かい表情、仕草、服装、歩き方、そういう事でもサインを出しているし、人間は黙っていても「見えない絶叫」をしている。俺には聞こえてしまう。本当にもっと無神経になりたい。他人を踏みにじって平気でいたい。だけれど無理だ。それどころか、少しずつ神経が細やかになり、つくろわないといけないところが、あらわになってくる。とにかくどんどん心くばりは行き渡るようになり(まぁ、人手がないから放置せざるをえないことが多くて、とてもそうは見えないだろうけど。それも辛い)心も繊細になっている。
人というのは、かなり独立した生き物だが、ビリヤードの玉のように弾きあっているもので、俺の行動を一番最後まで見届けた場合、俺の行動は善くても、それが原因となって誰かが行動したりしていて、それは悪い結果になったりしていて、根源的には俺が原因で誰かが失敗していたりする。そいつが失敗しようが責任もてないし、そいつの人生の経験にもなるだろうし。でも何か悪いことをした気分になってしまう。
心の底からの発想の転換、それをしないと本当に自殺してしまう。
「大切な何か」に、ヒビが入ったり、ネジが取れたりする度に発狂しそうになる。壊れたら、その時に修理に出せばいいだけなのにね。それができない。

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とにかく死にさえしなければ生きてんだ。失敗も糞もあるか。今生きている人だって、地球だって、いずれなくなっちまうんだからよー。開き直ってやれよ、俺よ。「世のため、人のため」という言葉が呪いのようだ。しかし、まぁ、「世」やら「人」には俺だって含まれてて然るべきだ。とにかく、あんまり罪悪感とかを持ちすぎたら憂鬱になるだけだ。とにかく人に気を遣ってばかりだと、びくびくしてかえって挙動不審になってしまうだけだ。そっちの方が世の迷惑だ。そう思わないのか、俺よ。