今日は比較的だらだらしていたので楽に過ごせた一日でした。
帰りに本屋に寄って永井荷風の小説だとか少年少女の4巻が出ているらしいので買おうと思ったのですが、どちらもなく、というか、二階にレンタルビデオがあるようなやや大型の書店であったにも関わらず岩波文庫すら置いてない。ガガーン。僕は非常に悲しい気持ちになって帰宅したのでした。

                                                                                                                • -

一年生の女の子がいるのだけれど、なんというかハードコアですわ。
なんでも大槻ケンヂが好きらしく、町田康にも興味があり、貸して欲しいという話なので読み終えた「夫婦茶碗」を貸しました。
そしたら彼女からメールが届きました。
「面白かったです。つげ義春みたいでした」
じゅ、じゅ、18の女の子が!つ、つ、つげ義春!?
僕は、えっれー驚いたのですた。

                                                                                                                • -

うーん、そもそもの根本は自分が「部活大変なんです」とか「死にたいなぁ」などと言うことなんじゃないだろうか。そんな事を言うから、相手はその話題に興味を示し、相手を怒らせることになるのではないか。で、反論してしまうのだけれど、人からは「甘えているんじゃないか」とか「愚痴が言いたいから弱者を気取っているのはないか」とかは言われ、実際、そうであるので、まぁ、そうです。
これはエレカシ宮本も著書で「絶望、豊かなる絶望、青年の甘き絶望こそが、希望の基だと信じよう」と書いている通り、まぁ、何かしらまだ甘ったるいし、太宰治も、自省もこめ「気取った苦悩ですね。僕は、あんまり同情していないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁解も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです」書いており、まだ自分可愛さが残っている気はするのだけれど、本当に自分可愛さを捨ててしまったら、時間や行動なども奉仕しないといけないことになり、まぁ、そんな事はできないだろうけど、やろうとしただけでもとにかくえらいことになってしまう。
 高野文子の「黄色い本」で、「老人に席を譲ると、相手は「ありがとう」と言うが、そもそも初めから立っていれば、相手に「ありがとう」さえ言わせない奉仕ができるのである」というような要旨のことが書いてあったけども、実際にそんな事をやろうとしたら破滅だ。
とにかくどうしたら何の不安も罪の意識もない幸せな結婚生活ができるんだろうか、というのが問題だなぁ。まぁ、完全なる奉仕とか愛は諦めるとして、そうなると邪魔というもんだな、それを減らしていく為の生活をしながらいけばいいのかしら。それなら何とか奉仕と私利のバランスが得られるのではないだろうか、と思いつつ、まぁ、もう老いる生身の人間なりに頑張るしかないか。

                                                                                            • -

ある二択がせまられた時に「YES」か「NO」かを選択しないといけないのだけれど、相手は「YES」を期待しているが、自分の心は「NO」を言いたい。そういう場合、相手はお金だとか何かしらくれたりして、自分も「それならYES」と言ったりする。それが契約だと思っていて、契約は履行しないといけないと思う。ところが履行にあたって、この国ではどうやら契約というのは子分になることらしく、いつの間にか契約外の事や違法な事までさせられて腹が立ってバイトを辞めたりしてしまうタイプの人間に僕は属するのである。
僕が、もっぱら対人関係で揉め事を起こす相手なのは契約やらに関係しない「YESかNOか?」を突きつける人間であって、本当は突きつけられないところまで逃げればいいのだけれど難しい。その上、どういうわけか私生活において、別にお金も代価も払ってくれるわけでもないのに「YESかNOか?」を突きつける人がいて、大抵、そういう人は親切で言ってくれているけども別にこっちも馬鹿正直なので、心が「NO」という結論を出した場合、「NOです」と言ってしまって、向こうも親切で言ってるのに悪いなぁ、と思いつつ、事態はややこしいことになり、結果、もう自分みたいな人間は生きていけないなぁ、という確信がますます強くなり、自分に「嘘つきになるか、それとも死ぬことになっても馬鹿正直をやるか?」という自問したところ、自分の心は「馬鹿正直で死にます」という答えを出し、自分は自分に払う金がないから「馬鹿正直で死ぬ」路線を貫こうと思い、やっぱり生きていけないなぁ、と思いながら生活しているのでした。
じゃあ、何でこんな事になるかというと、自分の心は「自由、平等な契約による勤労、正直、人権」などという倫理的な言葉をキーワードに動いており、根本的な原因は「嘘をつくとエンマ様に舌を抜かれる」などという事を子供に教えることなのではないかと思う。自分は宗教だとか迷信は嘘だと思っているが、それでも、あながち全くのでたらめでもないな、と思っているし、どこかで「罪と罰」の観念があり、いつの間にか、自分の心は、自分の罪に対して、自分で罰を下しているようであり、逆に自分自身でそんなことをやっていたら、かえって世の中で生きていけないと思う。
つまるところ、大体、平均的なレベルで、嘘をついたり悪い事をしたりして、人に合わせて生きていけば問題はないわけだけど、自分が受けた教育というのは「自分らしく生きましょう」というものであり、それを真に受けた僕は馬鹿だった。が、時、既に遅く、自分の心は「自分らしく、かつ倫理的に」が基本路線であり、それに背くと、自分の心が自分を罰するシステムになっているようで、要するに日本の教育は間違っていて、容赦のない鉄拳制裁から成る軍隊教育を赤ん坊の時代からやるべきなのかもしれん、と思うけど、それも自分の心は許さないし、もう心なんて無くなってしまえばよいのなぁ、と思うけど、いつも自分の心は「馬鹿正直で死にます」にしか「YES」と言ってくれないので、のたれ死ぬか、自分の心も「YES」してくれる職を探して、さまようしかないと思う。
もしくは「愛する妻子の為には多少の事は犠牲にしましょう」なら自分の心も「YES」してくれるんじゃないか、とも思うけども、自分は家庭なんか持っていない上に、自分の尊敬する太宰治氏は「自分や自分の妻子だけを可愛がる、家庭の幸福が諸悪の元」的な事を言っており、実際、自分や自分の妻子が可愛いから、人間というのは雇用者が無茶を言った時に無茶をやるのであり、無茶が無茶で通ってしまう。確かに一理あるかもしれないな、と自分の心も同調したりして、また一歩、平穏から遠くなっていく気がする。で、平穏から遠ざかる自分は屑のようになっていき、周りの親切な人に心配やら迷惑をかける。で、そうしている間にも二択は突きつけられ続け、もう自殺したいなぁ。と思って酒を飲んだりする。