いやー、ついにPRIDEヘビー級GPだなぁ。楽しみ。

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小説を書くにあたっての序文
 いつだって僕ぁ愛の権化になろうとして、世界でいちばん苦悩している。三鷹市禅林寺境内に向かい合って立つという太宰治森鴎外の墓、そのふたつの墓石が合体、そして生まれたのが僕の魂なのだ。強力無双にして大仙術の使い手であったかの孫悟空は、花果山の霊石から生まれたそうな。即ち、太宰、鴎外、両先生の墓石より魂をいただいた僕は、いわば日本文芸の化け物ザル。悟空は西天取経の旅の末「仏道に帰依し、悪をおさえて善を顕わし、魔怪を降して功あり、終始を全うしたる」により、釈迦如来よりゆるされ、「闘戦勝仏」となったそうな。僕だって、いずれ、闘い、戦い、勝って仏になりたいな、なあんて不遜にも思っていやがるのである。うーむ、もうすでにここまでで、傲岸不遜の心極大たる高慢ちきのド阿呆と思われても仕方が無いけど、僕は、これでなかなか誠実な男なのですよ。今だって、正直「書いちまった」と後悔の念、山のよう。どう考えたって全知全能とはいかないのだから、書いてることだって、絶対に誤っているのである。神罰、仏罰、恐れているのである。おびえているのである。自分の才能なんて解っている。ねぇよ、才能ねぇ。中途な誠実だけだ、僕にあるのは。中途が書くから罪になる。間抜けである。道化である。しかし、一文字一文字が罪の証だと知りつつ、なお書いているのだ。何故、そこまでして書いているかと問われれば、結句、書かなければ自殺しかないのだ。書けば罪、書かねば自殺。
そもそも、人間がだね、鴎外先生の小説を読んで「おいしい。満腹です」と、足ることを知れば、こんなことは書かなくてよいのであって、ところがそうはならないから、太宰治大統領の御登場、ということに相成ったわけだ。そんなわけで、先程、新潮文庫太宰治著「晩年」「二十世紀旗手」を続けざまに拝読させていただいたのですが、何だこれ。「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」で構成された三作一組であるところの三部曲「虚構の彷徨」をぶった切ってバラバラに収録している上に、解説者は「甘えている欠陥はある」などと、ぬかしていやがるのであった。こっちはもう激怒ですよ。お前に何が解る。太宰大統領はね、全人類に対し「好きです。付き合ってください」と愛の告白をした男なのだ。振られるリスクを背負って、なお、そう言ったのだ。人間みんなへの永遠の片思いを覚悟したのだ。本当に好きな女に告白をしたことがある奴なら、愛の告白がどれだけ勇気の要ることか解るだろう。それを甘えだと?いいか、「太宰に甘えがある」と言った奴はそれこそ「悪に媚笑」してやがる奴なのだ。解ったか、ボケが。
 世知辛いものである。自分のキリストである太宰治師の著書でさえ俗悪にまみれ、汚物と化しちまってるぜ。泣けてくる。心が滅亡する。自殺、自殺、自殺。いや、いかん。自殺は避けたい。こうなれば書こう、書かねばなるまい。綿矢りさごときに芥川賞をやり、太宰がどうの語らせている日本文芸界はやばいのである。僕が太宰大統領を伝道せねばならぬのである。死人に口はないのである。彼は、誰より芥川の苦悩を知っていた偉い男なのであって、彼にいちゃもんつけて芥川賞をやらなかった川端康成、およびそんな野郎にノーベル文学賞をやった世界を、僕は許さないのである。これは愛の憤怒である。
鴎外は自然。太宰治もそのまま自然。ところがその自然が俗世に解らんからまずい。まぁ、解らないのは全然良いのである。解らなくたって健康であれば良いのだ。まずいのは病弱者が、自然を解っていない自分自身を解っていない、という無自覚の愚かさなのだ。神に結婚を誓いながら離婚するキリスト教徒がいるのである。愚かだよ、全く愚か。その罪だって誰が背負うと思ってるの。イエスだよ?知ってた?愚かさは罪だけれど、罪を憎んで人を憎まずだ。とはいえ、愚かさは人間の克服すべき最大の悪業である。調伏するには、僕はもう、自分の脳髄さらけだして、精密に、全てぶちまけるより他なし、という結論に達し、本来なら「山椒大夫」のごとき作品を遺したいのであるが、僕は醜いのを承知ノ介。先人、つまり鴎外の「寒山拾得縁起」および、太宰の「如是我聞」など、あえて小説と随筆を分けた英知を、僕もあえて無視し、悪を調伏すべく、人間の蘇生の姿を口を酸っぱくして全て叩きつけようと思うのだ。

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自信=人を愛する勇気