傷を待つひと

 私が、ご主人様の身の回りのお世話をすることになったのは、終戦から一週間ほど経ってからのことでした。結局、父は戻ってこず、遺体も見つからないまま、とうとう戦死ということになりまして、他に頼る人のなかった私は、父のお知り合いの方に住み込みでの奉公を頂けるようお願いしたのでありますが、その依頼の果てに、ご主人様にお仕えすることになったのです。
 私は、そのご奉公のことは詳しく聞かされず(それは不親切のためというよりは、きっと父のお知り合いの方も終戦の処理でお忙しかったに違いありません)、ただ偉い軍人さんの身の回りのお世話ということだけを教えていただきました。私は、それなりの教育は受けてはきましたが無知な女で、そのお話を聞いて、もしや私娼のようなことをしなければならないのか、と勝手に思い込んで、それはもちろん杞憂であったのですが、しかし、確かにそのとき、私は、憂鬱で、憂鬱ながら、ご主人様のお宅に伺いました。爆撃のせいか、すこし崩れてはいましたが、それでも立派な彫刻のされた大きな石の門の前で、ずいぶんと途方に暮れた記憶がうっすらと残っています。
 門を看る者は誰もいないから、屋敷の扉まで行ってノックをしなさい。ということを事前に聞かされていたので、私は、何だかわからないような気持ちで、畏れながら、狛犬のような石像の目線をくぐって、門を押しのけ、中へ入りました。なにか物々しい造りのお屋敷でしたが、そのお庭は、よく手入れをされており、私はその様子に少し安心をいたしました。花をやさしく世話されている方に悪い人はいないと、なんとなくながら思ったのでありましょう。後から聞いた話では花の世話はご主人様ではなく庭師の方がされていたそうですから、これも滑稽な私の一人相撲の思い込みでしかありませんでしたが、とにかく私は、わずかながら不安な気持ちを忘れ去って、扉の前にようよう辿り着き、ノックをしたという次第です。
 鷹のレリーフの彫ってあるノッカーをたたきつけると、カツーンという乾いた金属音がよく響きました。あまりにも響き渡るので、なんだか私には、その音が現実のものとは、かえって思われませんでした。しばらくすると、その音を聞きつけたのか、誰かがゆっくりと歩く音が、厚いドアの向こうで、わずかに、しかし、確かに聞こえ、少しずつドアが開いていきました。ドアを開けたのは、私と同じ年頃の少女でした。
「今日から、こちらに勤めさせていただく者なのですが・・・」
「ああ、あなたが。では、上がってくださいな」
 導かれるまま、私は屋敷の中へ入り込みました。まったく私には不似合いなほどのお屋敷で、入り込んだ、という言葉がぴったりでしょう。そして、少女は、私よりも遥かに華奢で美しくて、きっと同僚になるのだけれど掃除なんかは私がやるんだろうな。そんなことを考えながら、私は、少女の後ろを緊張しながら歩いていきました。
「ここがあなたの部屋になります」
 ドアが無限に並んでいるかのようにさえ感じる長い廊下の、とあるドアの前で少女は足を止め、私を案内しました。私は躊躇しました。立派なドアの並ぶ中、目の前にある私のものとなるというドアは更に立派に見えたからです。導かれ、ドアを開けると部屋の中も立派で、召使の部屋というよりは明らかに貴婦人、皇女の使う部屋といった具合のもので、私は驚くやら戸惑うやらで「こんな立派なお部屋、使えません!」と思わず大きな声で言ってしまいました。
 少女は、くすくす笑いながら「すごい剣幕ね。でも大丈夫よ。なんせこの屋敷には私とあなたしか住まないんですからね」と言いました。それで、私は、この少女が、私がお世話をする偉い軍人さんだったということを知ったのです。そして、これが私とご主人様との出会いでした。
 その日から、ご主人様のお世話をさせていただいたのですが、ご主人様という方は、やはり年若い女性らしいといいますか、普通の女の子となんら変わるところのないお人柄でした。ただ私や他の娘さんたちと違っているのは、このような大邸宅と言っても過言ではないようなお屋敷にたった2人でお住まいになられていることや、あの戦争のことなのでした。
 ご主人様は、その事を自分から人に語るということなど、必要以上には絶対になさらない方でしたから、私には、私よりも華奢なご主人様が、ほとんどお一人で戦争を終わらせたような軍功を持つ偉い軍人さんだとは思えませんでしたし、全く信じることができませんでした。それに、ご主人様は、とにかくお優しく、どうやったらあのような方が人を傷つけたり、ましてや人殺しなどができるのかも、私には、さっぱり想像さえできなかったのです。
 しかし、私がお屋敷にやってきてから一月ほどが経ったころでしょうか。後になってから、ようやく私にはご事情をお察しできましたが、ご主人様は、どうしても私に事情を話しておく必要がありました。ご主人様にはあまり時間が残されておられなかったのです。きっと気は進まなかったに違いありませんが、ご主人様は、私をお呼びになり、戦争の話をなさったのです。

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「あたしが、くろのす様に選ばれて巫女となって戦争に行ってから、もう1年近くになります。当時、まだあたしは、どこにでもいるような、ただの女子高生だったので、詳しいことは知りませんでしたが、それでも戦局は、ずいぶん悪いように見えました。困った時の神頼みとは言うけれど、やはり状況が悪くなってくると、人というのは神頼みを始めるようで、くろのす様にお目覚めになったのも、そういった事と関係があったんでしょう。
 軍部の方々が具体的に何をして、何を祈ったのかは知りませんが、戦勝祈願のようなことを、くろのす様のお社にしたようで、その結果、くろのす様は自らのお力の一部を巫女に授け、巫女を戦わせるとよいだろう、という御神託をされたそうです。その選ばれた巫女が、どういうわけか、あたしです。人間と神様にも相性のいい悪いがあるのかもしれません。あたしは、突然、この国の運命を背負って、戦争へ行かなければならないことになりました。
 くろのす様から私に与えられた力というのは端的に言えば『1年間、どのような攻撃を受けても無傷でいられる』というものでした。もっと詳しい原理を説明すると、くろのす様は時間を司る神様であらせられましたが、どうやら私の時間を操作されたようです。くろのすさまは、あたしが物理的にダメージを受けた場合、そのダメージを1年後に先送りするようになされたのです。つまり、あたしが転んだ場合、あたしが転んでから1年後にヒザがすりむける、といったように。
 このようないきさつがあり、くろのす様のお力で、1年間だけ、あたしのようなものでも戦うことができる能力を得たのでした。斬られても撃たれても、まったくどこも何にも傷つきませんでした。でも、1年経ったら死ぬんです。くろのす様があたしに預けた力は、1年だけのものなのですから。どこか馬鹿げたというか、あたしには嘘のような話にしか考えられませんでした。自分が戦争の真っ只中に行くなんて。それでも家族や知り合いの事もありましたし、首を縦に振らねばならないのは、あたしのような子供にさえ判りました。
 戦うといっても、腕力や体力はそのままでした。しかし、銃器などがあれば、なんとか戦えますし、もし幽閉されたり、縛られたりして無力化されたら、口の中に仕込んだ小型の核爆弾のスイッチを押せば、なんとか脱出できました。はっきり言って無敵でした。
 とはいえ、自分で言うのもなんですが、あたしのような弱いはずの少女が、重い銃器を抱え、人間を一方的に虐殺し、核で町を焼き払い、裸で歩き泳いで帰還する、などということを繰り返していたのですから、それはもう、ずいぶんと苦痛でした。うなされる日々が続き、しかし、狂うことも死ぬことも許されない、そんな毎日が途方もなく長く感じられました。それでも血みどろになって戦っていると、ある日、上官に呼び出され、そこで戦争が終わったという話を聞きました。南カタトの前線基地での事だったと思います。戦争には勝ちました。
 国へ戻ると、あたしは少将ということになりました。くろのす様の巫女であり、軍神と後に語り継がれるであろう、あたしが一兵卒では格好がつかないからでしょう。それに、どうせ死んでしまうんですから、何を与えたって一緒だとも思っていたようです。あたしは階級のことはどうでもよいように思われましたが、ゆっくり休みたいと思って、その意思を伝えました。それで、この屋敷が与えられ、あなたがここにやってきたんです」
 ご主人様は、このような話を、たどたどしく、しかし、鮮明に、ゆっくりと数時間かけて話されていたように記憶します。そして、ここまで話すと、最後に、私の目を見て、こう仰られました。
「あたしね、この家にやってきたのが、あなたでとても安心してるのよ」と。

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 私がご主人様のお世話をさせていただいてから、もうすぐ4ヶ月になろうとしています。5ヶ月目を迎えることはないでしょう。くろのす様との契約が切れる日まで、あと3日ほどしかないのです。今日、屋敷に薬が届きました。安楽死するための薬です。期日を過ぎて、ご主人様の体に傷が浮かび上がったら、ご主人様は、すぐにそれを飲む手はずになっています。一体どの傷が致命傷になったのかは、1年も前のことですから、はっきりとは分かりませんが、戦時中は砲弾の直撃だって数え切れないほど受けてきたご主人様です。体が弾けてしまうかもしれません。だから私が、ご主人様の了解を得て、薬を頼んでおいたのです。それが今日、届きました。もう時間が残されていないのだ。改めてそれが突きつけられたように思いました。
 ご主人様は、17歳という若さで死を目前に控えているにも関わらず、あまり普段とお変わりになられず、お優しく、いつものように、私のご主人様であると同時に大切な一人の友達のままでした。あれ以来、戦争のお話をされることはありませんでしたが、どこか死を覚悟されているようであり、それどころか、少し楽しみにしているようでさえあったのです。
 ある時、ご主人様が、一度だけ、独り言のように、こう洩らされたことがあります。
「戦争に行く時、恋人と離れる前におそろいのタトゥーを彫ろうと思ったのよ。でも、くろのす様のせいで彫れなくてね。それだけ、今も、ちょっと残念だなぁ、って、思ってるのよ」
 私は、それを思い出すと、ご主人様は薬をお飲みにならないかもしれないと思います。いや、いずれお飲みになるでしょうが、しばらくはお飲みになられないかもしれないと思います。ああ、もうすぐ3時になります。本当はコーヒーをお出ししたいのですが、コーヒーは来週になって届くことになっていますから、今日は温かい紅茶にミルクを添えてみようかと思います。来週にはご主人様はおられないでしょう。しかし、そんなことを私もご主人様も、何もなんとも思っていないのでした。