ワンダーフォーゲル 対 発光人間

 窓より先は、いちばん暗い夜空であった。
 未だにあの晩よりも暗い夜空に出会った記憶を私は持っていないのである。当時の私の窓からは、荒風岬の灯台を望むことができたのであるが、本来、煌々たる灯火を放つはずの灯台は、全くもって真っ暗で、私の目にはその輪郭さえも、おぼろであった。灯台に灯りの灯らぬその訳、私はこの町の誰より、はるかにそれを熟知していた。何故ならば、その時、私のすぐ傍らで毛布にくるまって眠っていた少年こそが荒風岬の灯台守であるからだった。

 荒風岬は、その名に基づくにしても、愚直なほど、常に荒い風に見舞われている。その風の強さといったら、無双に暴力的で、一面の植物は変にひねくれ歪んで、それでようやく生えている。糸のように細く、なおかつきれぎれにさえなっている道を、荒風に煽られ、珍林、珍草をかきわけながら必死に歩くと、ようやく灯台までたどり着くのだが、またこの灯台も珍妙である。風には断じて負けぬという気迫が、野暮なぐらいに形に現れ、不細工と言ってもいいほど妙に太く、肩に力の入ったようにずんぐりむっくりとしている。私は、窓から見えるその姿を見て、理屈ではあれが灯台だと了解できても、岬に突如として巨大な大福が載っかったような違和感を捨て去ることができなかった。
 灯台の中に入っても奇妙である。建築や照明などに全く疎いような素人が見てさえも、恐らく灯台の中とは思えないであろう。ほとんど住居である。部屋である。そうして灯火の類がまるで無い。どこを探しても見つけることができない。というより、そもそも実際、無いのである。窓のある部屋さえない。外気に触れることができる場所さえ、ガラクタの転がった吹きさらしの屋根裏がひとつあるきりである。不可解である。しかし、世の不可解には大抵答えのあるもので、灯火の無い理由もはっきりとしている。それも私だけが特別事情に通じていて知っているのではない。土地の者なら誰だって知っている。前述の通り、岬の風は荒い。ガラス窓などはもちろん、灯火の類を置けば、たちまち、風に、つぶてにやられてしまう。故に灯火が無いのである。にも関わらず、灯台は光を放つ。それは灯人が居るからなのだ。
 灯人の説明は容易である。光る人間だと言えばよい。どうして光るのかは、それこそ人智の及ばぬところで、とにかく人間が発光している。それは確かで、あるいは神仙の類であるのかもしれないが、それは知れない。ただ、厳然たる事実として、発光する人間が、灯台に居て、辺りを照らしている。私に説明できることなどそれだけではないか。
 しかし、灯人の説明はそれでよいとしても、何故、その男が、灯台と使命を放り出し、私の部屋で寝入っていたかを、私は、やはり説明せねばなるまいと思う。

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 私が、彼と出会ったのは、ちょうど私が学業を半ば放擲し、本来、教科書を買うべき金を使い込んでまで遊び歩いていた頃だった。故郷を離れ、遠いこの町までやって来たはいいが、慣れない土地で暮らす気苦労や、孤独な生活の煩悶もあり、その上、勉強の方も全く面白くなかったので、私は、かなりやけになっていた。あまりに先が見えぬのである。学校なんぞに行ったところで、それが今更何になろうか。まぁ、要するに、その時期、私は馬鹿をやっていたのである。
 その夜も、やはり暗い夜空であった。私は、いつものように当てもなく出かけていた。街をうろつきまわって、街灯もろくに無い住宅街の薄暗い路地にあるアパートに帰り着いた時には、もう深夜だった。違和感はあった。しかし、特に何も思わず、入り口の戸をくぐった。しかし、自分の部屋へ行き、明朝の回収のために燃えないゴミの袋を持ってから、再びアパートの外へ戻った私は仰天した。彼がゴミ置き場に寝転がっていたのである。
 美少年、と言ってさえよかったかもしれない。歳のころなら17.8ぐらいの少年だった。彼は、ゴミ袋の山に半ば埋もれながら、仰向けに眠り込んでいた。街灯の無い真っ暗なゴミ捨て場にあって、彼の体は微かに輝き、暗闇の中に体を浮かび上がらせていた。始め、気が付かなかったぐらいであり、その光はとても弱いものであったが、一度、気が付けば目が離せないほどの強さも持っていた。私は、しばし、この燐光を放つ美しい少年を見つめ続けていた。
 しかし、このままにはしておけないと、はっと気が付いた。火傷の心配をしながら、おそるおそる彼の体に触れてみたが、ごく普通の人肌の温もりが、かじかんだ私の手の平を温めた。私は、安心した。彼を担いで部屋に運ぶと、とりあえず毛布をかけてやり、ずいぶん酔っていた私自身も横になった。寝息に合わせて輝きを変える少年の横顔を眺めているうち、いつの間にか、私も眠っていた。

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「なぁ。ミスターワンダーフォーゲル
 彼は、私のことを、いつもこう呼んだ。それに応えて、私は、いつも頷く。
「何だ?」
 一度もこの街から出た事の無い彼は、この地に人生の一時期訪れる学生達を、渡り鳥と呼んでいた。彼の過去には何か別れがあったのかもしれないと、私は思った。しかし、当時、彼がワンダーフォーゲルと言うとき、そこには私しかいなかった。ワンダーフォーゲルは私だけを指し、私はワンダーフォーゲルになった。
 彼は、いつもさびしげで、私と会話していてさえも、そこはかとなく孤独の臭いを感じさせた。発光していて、まぶしい時の彼でさえ、どこか影があった。冗談のような話だが、冗談ではない。
「ミスターワンダーフォーゲル。腹が減らないか?コンビニにでも行こうよ」
「うん」
 いつものように、私達は外に出た。彼と二人で歩くと、灯りの無い道も明るい。しかし、ふと空を見上げれば、夜はまだまだ暗く、荒風岬の灯台は、暗黒の中、わずかに武骨な輪郭を見せるだけで、全く沈黙していた。慣れきっていたはずの当然の事実に、私は苦笑した。彼も、私の仕草に気付いたらしく、少し力なく笑って、口を開いた。
「僕達は馬鹿だね」
「うん」
 小さくうなづくと、私の目に、ぼんやりと光る彼の左手が映りこむ。その手が動いて、彼の髪をかきあげた。声がする。
「やるべきことを放りだしてる」
 彼がしぼりだすように吐き出した白い息が目の端に見えた。
「そうだな」私は応えた。「俺は学業を投げ出し、君は灯台にはいない。俺達は使命を果たしていない。馬鹿だと分かっているけど、それでも戻らないのは、どこか今の生活を気に入っているからかもしれない」
 私が、そう言うと、彼は強い眼差しで、こちらを一瞥して、林檎にナイフを入れるように、さりげなく、何気なく、ふっと言った。
「ミスターワンダーフォーゲル。渡り鳥は、飛ばなければ死ぬよ」

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 私たちは、三ヶ月ほど一緒に暮らした。

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「親父が死んだんだ。それで僕が灯台守になった」
 初めて、彼と話した日、その話を聞いた。
「そしたら、もう全然駄目でね。一晩中どころか、何時間も照らしてられないんだ。親父が生きてた頃は、俺が照らしてた夜だってあったんだぜ?それがもう全く駄目だ」
 何故こんな話を聞くことになったのか、覚えていない。私が問うたのか、彼から喋ったのか、それも今は曖昧で。
「親父が死んで、灯台守が仕事になった夜から、僕は光を保てなくなった。あれだけの光量を出すには、それなりに集中力が要るし、飛んでくる石やなんかで怪我をしないように気をつけなければならないけどね、強い風の中で、じっと座って、一生、この仕事を続けていくことを考えると、もう駄目なんだ」
 彼の体には、よく見ると、小さな傷がずいぶんある。窓から見える灯台に火が灯っていた時、彼は、じっと屋根裏のつぶての中に居たのだろう。
「同じことでも仕事だと、なんか急にできなくなるんだよなぁ」
 いかにもまいったというような口調でつぶやく彼に、私はかける言葉が思いあたらなかった。しばらく部屋の中は重い沈黙が支配することになり、初対面の私達には、それはずいぶん気まずく思われた。
「そうだ、いいものを見せてやるよ」
 ごまかすように、そう言った彼は、手の平に紅茶のペットボトルを乗せると、手を強く発光させた。光を吸い込んでは放つペットボトルは、ランタンのように輝き、その琥珀色の光の柱は、六畳の私の部屋を美しく照らし出した。
 私は「綺麗だ」と口では言ったが、このような宴会芸を覚えなければいけなかった彼の人生の苦労を思うと、何か喉が詰まるような思いであった。思わずたずねた。
「君はいつもこんな事を人にしてみせるのか?」
「うん、そうだ」
「それじゃ苦しいだろう」
「まぁ」
 彼は、軽く肯定して、息を吐いた。そしてこう言った。
 「こんな夜には天国のことしか考えないんだ」
 どういうわけか、彼は、その日から私と暮らし始めた。

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「悪いけど、あんたに食べさせるものはないね」
 いつものように定食屋に入った私達だったが、アルバイトの女学生だろうか、彼女は、本来、客であるはずの私たちに毅然と仁王立ちで、こう言い放った。
灯台が暗いせいで、あたしの兄ちゃんは船を引っくり返して怪我しちまったんだ。それで腱が切れてね」
 それを聞いていた彼は、少し意外そうに、しかし全く予測していないわけでもなさそうな顔をした。
「怪我人が出てたのか」
「出るに決まってんだろ、灯台に灯りが無いんじゃ!とにかく帰りなさいよ!」
 私達は、仕方なく往来へと戻った。さすがに足取りは重い。しかし、こういったことは初めてではなかった。そういう時、さすがに彼は悲しげな顔を隠さない。
 そもそも彼と出かけると、いつも目立つ。土地の人間で彼のことを知らない者はいない。映画館などは最悪だ。実際に入ったことは、さすがになかったが、あの暗闇の中ではさぞかし彼の体は映えるだろう。ムービースターなんかより、文字通り、光を放ってしまうに違いない。どうも灯りを断ち続けているのにもずいぶん集中力がいるらしい。
 彼が目立つのはとにかくまずい。この街の人間は、彼のことを逃げたのだと思っているらしい。そんな風に思われてさえもこの街にとどまり続けるには、愛情と勇気がなければ到底できないことだと私は知っている。
逃げるのならば、誰も知る人のいないところへ。これはセオリーだ。彼は居続けている。ましてや逃走していない。そして、本当に彼が願っていることは、たったひとつ「ただ、光であれ」ということだけなのだ。
「ミスターワンダーフォーゲル。僕を卑怯者だと思うかい?」
「いや・・・、よくやっていると思う。君は嫌われているが結果論で人格を裁くのは卑怯だと思うな」
「しかし、空が暗いのは事実だよ」
「君が街に愛情を持ち続ける事は、正直、感嘆に値すると思ったいるさ。本当だよ」
 この頃、私が眠り込むのを見計らった彼が、押入れで発光の練習をしているらしい事を、私は知っている。彼が放った強い光は、ふすまをまるで幻灯のようにする。布団の中の私は、夢心地でそれを眺める。紙に描かれた鳥は、陽光に照らされているかのようにさえ見える。それにしても、彼から渡り鳥と呼ばれる私は、一体、いつまでこの地に留まるというのだろうか。
地球上に住む鳥の3分の1は、渡りの習性を持つという。

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 春一番の日。強い風が花嵐を創る午後、彼と歩いた。
「見ろよ、空がきれいだ。ミスターワンダーフォーゲル
「うん」
「そして風が強いのに暖かいよ。春の風だ。もう僕は行かなきゃ。この風が吹いたら本格的に船が出入りするからね。定職屋の子を覚えているかい?怪我人だけで済んでいるようだけれど、きっといつか死人が出るよ」
「うん」
 私達は、ずっとぬるい風の中で、渦を巻きながら行過ぎる花嵐を見ていた。
「行かなきゃ」彼が小さい声でまた呟いた。いつの間にか陽が沈みかけ、夕日に照らされた彼の姿には無数の花びらを浴びせられ、輪郭は溶けて、まとっているのは光なのか、花びらなのかもう分からなくなっていた。私には何だか分からない物で構成された赤い粒子のグラデーションに包まれていたその彼の姿は、ただただ、どこか神聖で。
 あくる朝、押入れには彼が読んでいた赤毛のアンだけが一冊残されていただけだった。彼は還った。そして、私達は別れた。互いの名も知らないまま。

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 それから1年が経った頃、どうにか卒業できた私は、街を離れる事になった。荷物も全てまとめて送り、私自身は手ぶらで電車に乗り、新居を目指すことになっていた。駅のホームに立っていると、ぬるんだ風に、ふっと吹かれる。私は、そうしてまた春を知った。
 電車は、少し遅れてやってきた。乗り込もうと歩き出した私の耳に、誰かしらの話し声がかすかに聞こえた。
「昨日の夜は、灯台の灯りが一晩中ついてたよ」
 聞きとがめ、振り向くと同時、ドアがプシュと音を立てて閉まり、私は、あの街の空気から永遠に閉ざされた。窓から外を覗くと、視界の端に荒風岬の灯台が目に入る。一羽の渡り鳥が、風に揉まれながらも、灯台にへばりついて止まっていた。私は、その鳥が雄か雌かも知らないまま、彼の真似をしてつぶやいた。
「ミスターワンダーフォーゲル。渡り鳥は、飛ばなければ死ぬよ」
 電動モーターの音を響かせながら、ゆっくりと列車が動き出す。スライドする私の視界から灯台が消え入るとき、渡り鳥が飛んだ。