野うさぎ島の神の手

 野うさぎ島の本当の名前は、もう忘れ去られてしまって誰も覚えていない。誰もが野うさぎ島のことをそう呼んでいたし、たまに年老いた者が野うさぎ島という名前は通称であって本当の名前があったと思う、ということを語ることがあるぐらいで、やはり誰も野うさぎ島の本当の名前を知らないのであった。
 野うさぎ島は、けっして大きな島ではない。大の男なら半日もあれば島のほとんどの場所は行き尽くすことができるだろう。実際、島を歩いて見れば、その名の通り、たくさんの野うさぎが住んでいる。誰が世話をするわけでもないが、それでもたくさん住んでいる。繁栄の理由は、うさぎ草(これも地元の人間がそうやって呼んでいて、やはり本当の名前はわからない)にある。うさぎ草にはうさぎの魂が宿っていると人は言う。うさぎ草はうさぎの食事としては最高なのだ。
 野うさぎ島のうさぎの数は、ほぼ一定に保たれていて、うさぎが増えすぎれば、えさであるうさぎ草は減り、えさが減れば体力の無いうさぎは死んでいく。うさぎ草が増えれば、うさぎは増える。うさぎが増えれば、草は減る。その繰り返しで、どちらかの種が絶えてしまうことはなく、人々はその自然の見事な調整を『神の見えざる手』と呼んでいた。

 しかし、ある年のことだ。野うさぎがすごく増えた。島を埋め尽くす、という程ではもちろんないが、島を歩いていて視界に野うさぎの姿が入らないことは無い、というぐらいの増えようで、人々は「神の見えざる手でも今度ばかりは」「このままでは野うさぎ草が食い尽くされてしまうのではないだろうか」と話し合い、いよいよ村の若い者を集めて野うさぎ狩りをしようということになった。
 ヨーゼフは、村一番の勇敢の若者で狩りに関するカンは天才的なものがあった。獲物に気配を悟られずに、するすると近づき仕留めてみせることには、野生のヒョウやなんかだって敵わないかもしれない。実際、ヨーゼフの実力というのは大したもので彼に狙われたとしたら悪魔だって肩にヨーゼフの手を置かれるまで彼に気付くことはないだろう。
 そのヨーゼフをはじめとして、村の若者たちは毎日のように野うさぎを狩っていたが、腕前のある彼らのこと、野うさぎを見つければ弓をうならせ、一矢で見事に仕留めてみせた。しかし、毎日持ちきれない程、うさぎを狩っても、うさぎはいっこうに減らない。それどころかむしろ増えていくような気さえするのだ。
そんな日々が続いたある日のこと、ヨーゼフはいつものように狩りをしに、野うさぎ島へ船を寄せたが、その日に限って全く野うさぎの姿が見えない。普段は船の上から一匹ぐらいは仕留めてみせるのだが、姿も無いのでは仕留めようもなく「島を間違えたか?」と思ったが、そんなはずも無い。しばらく歩くと、ようやく野うさぎの姿を見つけた。射った。仕留めた。いつものように。しかし、漠然とした何かをヨーゼフは感じていた。だが、それが何なのかはわからなかった。
 しかし、数匹を仕留めた頃、ヨーゼフは気付いた。
「うさぎ達はどこかへ向かおうとしている」
 この島に住む増えすぎた野うさぎは、皆、どこかへ向かおうとしているのだ。島の外周にうさぎがいなかったのもその為なのだ。きっと、何かが、起きようとしている。
 ヨーゼフは急いだ。うさぎの集まるその中心へと。野うさぎには目もくれず、中へ中へと向かっていく。それにつれ増えていくうさぎ。いつしかヨーゼフの足元は野うさぎの群れで埋め尽くされていた。
 いつしか小高い丘に出た。島の中心。本来であれば島一番のうさぎ草の群生地であり、青々とした草原が広がっているはずの場所は、うさぎに食い尽くされ、禿げて、赤い土を露出させている。しかし、その赤い土さえほとんど見えない。丘一面、見渡す限り、うさぎ、うさぎ、うさぎ、うさぎ。
「何が起きている」
 ヨーゼフが思うが早いか、前触れもなく突風が吹き抜けた。生暖かく、とても強い。ほとんど爆風か衝撃波と言ってもよいだろう。それはとてつもない。ヨーゼフは、風にまかれ野うさぎが塵のように空を舞っているのを閉じかけたまぶたの間から見た。
 ぐしゃり。
「うさぎが潰されていく」
 信じられないことにあまりの風圧で、うさぎが潰されていくのをヨーゼフは見た。
 ぐしゃり。
「神の見えざる手」
 彼は思い出していた。その言葉を。あれは風ではない。巨大な手だ。まるで丘ごと見えない手で押しつぶされているようではないか。潰れていくうさぎの血の跡、まるで巨大な手形じゃないか。
 ぐしゃり。
「きっと、いつか、これを見た人がいるのだ」
 そして、その話が伝説として、村に伝わっているのだ。もはや風なのかもわからない強い強い流れの渦の中、彼は考えていた。まさに見えない神の手が増えすぎた野うさぎを減らしていたのだ。
 ぴたり、と風がやむと、そこには荒地に立つヨーゼフしかいなかった。風に吹き飛ばされた野うさぎ、生き残った野うさぎ、皆、いつの間にか起き上がり、散り散りになって逃げ出してしまっていた。もはや遙か地平にうさぎの後ろ姿がかすかに見えるばかり。後に残されたのは数十メートル以上はあろうかという、巨大な赤い手形ひとつ。
 と、思えば、ざああぁっという音を立て、赤い手形が緑になった。いや、一瞬にして草が生えたに過ぎない。うさぎの潰れたその場所に、うさぎ草が一面、瞬時にして生えていた。
「うさぎ草にはうさぎの魂が宿っている」
 ヨーゼフは、そうつぶやくと、クラクラとめまいを起こし、その場に倒れてこんでいた。いや、あるいはめまいを起こして、倒れたヨーゼフがそうつぶやいたのかも知れぬ。
 誰も動く者のいない丘の中で、うさぎ草だけが風になびいていたが、しばらくすると、がさりと音を立て、濡れる程に血まみれになった一匹のうさぎが草むらからゆっくりと這い出してきた。
 うさぎは、にやりと笑うと、丘の向こうへ走り去った。